とりあえず音楽の話を。

音楽なしではいられない

1985 Stryper

洋楽好きだと紹介された数カ月後の夏休み。

友人の知り合いに音楽に誘われた。

 

 

時は80年代。

当時でも田舎では洋楽を聴く学生なんて少なかった。

 

アイドルに夢中な同級生に馴染めず、

変わり者のような扱いで過ごしていた。

 

幼少から楽器に触れる生活をしていた。

鍵盤が弾けるからと指名された。

 

暑い夏休み。

次の日から練習が始まった。

 

小さなスタジオ。

膝を突き合わせて曲決め。

 

カセットテープと手書きの歌詞カード。

 

ギターとドラマーから提案された数曲中の1曲が

このバンドの曲だった。

  

 

Soldiers Under Command

Soldiers Under Command

 

 

 全く聴いたことがなかった。

少年のような声に驚いた。

 

繊細で実に丁寧に歌う。

ボーカルは Michael Sweet。

 

Sweet の名に相応しい声。

 

 YouTubeのない時代。

当時は演奏している映像なんて見つからなかった。

CDジャケットと雑誌だけが頼り。

 

 

Stryper - Together As One +Lyrics

 

スコアがないので、コードを拾う。

 

この時にはじめて

ベースラインをきちんと聴くという作業をした。

 

ドラムの音。

ギターの音。

キーボードの音。

 

メロディーを外して聞き分ける。

 


Michael and Kyle Sweet on TBN 9-20-07 Together as One

 

比較的最近の映像。

 

他のミュージシャンの数十年後と同じく

キーを下げて歌う。

恰幅のせいか、声質も変化したよう。

 

このバンドの曲、

歌詞は聞き取りやすいが、歌うのはかなり難しい。

ボーカルも苦労していた。

 

 


Stryper - Battle Hymn of the Republic - Hino da batalha da república

 

 

彼らはクリスチャンバンドとしてデビュー。

そのためか評価を二分されたのがとても惜しい。

その頃、日本では悪魔がミサを行っていたけどね。

 

 

当時の録音もレンジが低いせいか良い音に聴こえない。

 

 

それでも久しぶりに聞くと

当時の空気を感じる、そんな一枚。

 

1971 Janis Joplin

生きるのが不器用な人はどこにでもいる。

 

少し大人になって、自分の人生を振り返る頃、

耳に流れ込んできたのが彼女だった。

 

絞り出すような声、

まるで自分の何もかもをさらけるような声。

 

彼女の魅力はその年齢でしか、理解できなかったかも知れない。

 


ジャニス・ジョプリン サマータイム Janis Joplin Summertime

 

人に恵まれた青春を送る人もいる。

誰にも理解されない人もいる。

 

「音楽がなかったらきっと私死んじゃってたよ」

 

68年のインタビューでの発言。

 

本来のジャニスはステージでの姿とは別人の

ナイーブで臆病で自信のない人だったという。

 

強く見せている自分、

ゆるぎない自信に溢れたステージでの彼女。

自分自身とオーバーラップして彼女のことを調べる。

 


Janis Joplin - Try (just a little bit harder)

 

 

誰にも看取られず謎の突然死。

ボーカルトラックが完成しないまま発表された曲。

 


Janis Joplin - Buried Alive In The Blues (HQ) ♯5

 

片手に4ドル50セントを握りしめたまま、

ベッドとナイトテーブルの間で倒れていた。

 

ヘロインとアルコールのせいなのか、

検視では「薬物の多量摂取」と記載されていたという。

 

理解されない自分と周りの人間とのもどかしさ。

亡くなる前に参加した同窓会でも

故郷の居心地の悪さを感じたようだ。

 

自分も同窓会には参加しない。

 

伝説のロック・クィーン / ジャニス

伝説のロック・クィーン / ジャニス

 

 

コズミック・ブルースを歌う

コズミック・ブルースを歌う

 

 

ジャニスの声を聴きながら

じっくりと独りを楽しむ夜も悪くない。

1982 DuranDuran

親に叱られながらこっそり深夜のTVを観ていた。

 

「英語の歌、かっこいいよな」

 

興味本位で流される映像をずっと眺めていた。

遠い国、海外で流行る音楽が

多感な思春期の心に流れ込んできた。

 

そんな背伸びしたい頃に、

姉や兄のいる同級生から借りたレコード。

 

化粧を施した男性なんて沢田研二くらいしか知らなかった。

 

Rio

Rio

 

 

カセットテープに落として何度も何度も聴いた。

レコードショップに行き、アルバムを買った。

貰ったポスターを部屋に飾った。

 

Duran Duran

Duran Duran

 

 

「Save A Prayer」は何度聴いたのか。

「player」ではなくて「prayer」、辞書で調べた思い出。

 


Duran Duran - Save A Prayer

 

ちなみに「祈る」という意味。

 

自分のために祈らないでくれ。

 

このPVはスリランカでの撮影。

 

ジョン テイラーによると

ニューロマンティックな女々しい男たちというイメージで

僕らはがんじがらめにされていた。それで自然に帰ろうということに決めた」

そういう意向だったようだ。

 

ロジャー テイラーによると

「Save A Prayerで全員が象に乗ったんだ。

ぼくの乗った象が雌象の匂いを嗅いで興奮して

雌象に乗りかかろうとしてね。

直前に慌てて飛び降りたけど、あんな怖い思いは今までなかったよ」

と話している。

 

撮影後の3月にアンディ テイラーはコンサート後の楽屋で倒れる。

原因は熱帯性の熱病。

過労と不摂生、象の尿に汚染された水を飲んでしまったのが原因との診断だった。

その影響で以後のヨーロッパでのコンサートは延期。

セカンドアルバムはリリースツアーのないまま発売されることになったそうだ。

 

1982年5月。コンサート延期の中で2ndアルバム「Rio」を発売。

 

最後の砦、アメリカでの彼らの人気に火をつけたのはMTVだとある。

 

それ以後の活躍は皆の知るとおりである。

年齢を経た現在の活躍はうれしい限りである。